御鎮座二千六百年、岡田宮

岡田宮について

御由緒

岡田宮旧跡の碑(熊西)
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。
神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。

仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。
古来当地は北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要に位置し、皇室、公家武門、武将等の崇敬篤く、祭礼法度を定め社領18所、末寺9坊と栄えたり。


天慶3年(940年)、藤原純友追討の折、追捕使の主将・小野好古、副将・源経基、戦勝祈願の為に当宮に参詣し、三環鈴を奉納す。此の神鈴今も当宮に伝来す。
建久5年(1194年)、征夷大将軍・源頼朝の御家人・宇都宮上野介重業、平家討伐の功によりて筑前国遠賀・鞍手両郡のうち三千町を賜わり、当宮の祭祀を波多野重満大夫藤原兼直に奉仕せしむ。
永禄2年(1559年)、大友宗麟の兵火に遭い社殿焼亡するも、永禄8年(1565年)、麻生上総介元重、社殿を再興せしむ。此れの棟札今に残れり。

黒崎駅図(筑前名所図会)
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。

爾来、藩主はもとより、長崎街道参勤の九州諸大名の崇敬篤く、社殿造営・社参奉幣等多く、又上り下りの文人墨客等数多く参詣せり。

慶応元年(1865年)三条実美卿、大宰府に流謫の途次、従士・土方久元を伴いて当宮へ参詣し、維新回天の大願成就を祈念し和歌一首を奉納す。


大正9年の岡田宮
昭和14年の岡田宮
昭和50年の岡田宮

現在では黒崎熊手地区50余町の産土神と敬仰され、近隣在民は勿論、広く北九州圏一帯よりの参詣多し。


鎮座地

福岡県北九州市八幡西区岡田町一番一号

岡田宮までの道案内



御祭神

中殿(岡田宮)

  • 神日本磐余彦命[神武天皇]
    (カムヤマトイワレヒコノミコト)

右殿(熊手宮)

  • 大国主命(オオクニヌシノミコト)
  • 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
  • 県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

左殿(八所宮)

  • 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
  • 神皇産霊神(カミムスビノカミ)
  • 玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
  • 生産霊神(イクムスビノカミ)
  • 足産霊神(タルムスビノカミ)
  • 大宮売神(オオミヤノメノカミ)
  • 事代主神(コトシロヌシノカミ)
  • 御膳神(ミケツカミ)

神々の系図


岡田宮は日本の代表的な歴史書にも登場しています

古事記に登場する岡田宮

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古事記中巻「書き下し文」はこちら

日本書紀に登場する岡田宮

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日本書紀 巻第八「書き下し文」はこちら